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百地章先生著『憲法の常識 常識の憲法』をお勧めします

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 文藝春秋社が発行している『本の話』という雑誌の先月号に、百地章先生のご著書『憲法の常識 常識の憲法』を推薦させていただく原稿を書かせていただきました。
 編集者の方から、「ご著書の内容よりも、百地先生のお人柄などに触れて・・」というご注文をいただきましたので、書評というよりはエッセイになっていますが、下記に拙稿を掲載いたします。
 百地先生のご著書は、とても面白く読めました。憲法にご興味をお持ちの方にお勧め致します。


*** 『本の話』掲載の拙文 ***

 28歳で修行先の米国から帰国した私は、私立大学教員の職を得た。その後、32歳で衆議院議員に初当選するまでの3年余、仕事の傍ら度々月刊誌に拙稿を書いたりテレビの討論番組に出演したりする機会を戴いていた。
 大して社会経験も無い若い女性が、現職国会議員を相手に、ポンポンと辛口のコメントを発する様子を面白がっていただいていたのだろうと思う。当時は、リクルート事件を受けて政治改革の議論が盛んな頃だった。私の素人目には「永田町の常識」が奇異に映り、若者らしい正義感を振りかざしては、「何故、この程度の常識的な改革が即座にできないのですか」などと国会議員に議論を挑んでいたものだった。

 その後、自分自身が熾烈な選挙戦を経験し、国会議員になり、やがて常任委員長や副大臣等、国会と内閣の双方で役職を務める経験を得ていくと、自分の中に有った常識の物差しが少しずつ変わっていった。
 それは、「永田町の論理に慣れて、普通の生活者としての感覚が無くなった」というようなものではなく、法律の制定過程を熟知し、多様な立場や思想を持つ国民の利益が衝突する現場に立ち会い、自らも選挙の洗礼を受ける中で、「政治的に出来ることと出来ないこと」の区別がついてきたということだった。
 簡単に改革できると思っていた事柄が、100本を超える現行法律の改正を要する作業であることが分かったり、自分が正義だと信じていた改革によって生活が成り立たなくなる国民が居ることに気付いたりと、自らの勉強不足を告白するのはお恥ずかしい限りだが、20代の頃にテレビで発言していた内容の浅はかさを思い知ったのだった。
 それでも、「理想と現実は違うんですよ」などと国民に言い訳をしていたのでは、国政の場に居る値打ちが無い。現実を理想に近づける為に行うべき地道で膨大な作業の存在に気付いた後も、1歩でも前進することを期してコツコツと制度改正等に取り組んできたつもりではある。

 現在は再び大学教員の職に戻ったが、15年前の自分には無かった常識をベースに、主に経済産業関連法制度の研究に励んでいる。如何に良い政策提言を作っても、実際の法制度改正過程における各種利益団体の動きを想定し、各政党が抱える政治的背景に関わる課題をクリアする手法を併せて考えておかなければ、学問は机上の空論となってしまう。
 以上は、愚かな私が長い年月を費やしてやっと辿り着いた法制度研究のスタンスなのだが、とっくに「現実的・常識的・実効的な研究」で着々と実績を挙げておられる学者が居られる。日本大学法学部で憲法学を専門とされている百地章教授である。
 実は、国会在職中に、外国人参政権や民法・戸籍法等の議論で自民党内の意見が大きく割れた折に、同志同僚議員たちとともに、何度も百地先生のお知恵を拝借している。私たちが政治家の立場から「日本の国益を考えると、こうあるべきだ」という方向性を語ると、百地先生が現行法の解釈や具体的な法改正案の文言までをご教授下さるといった具合だった。
 驚くべきは、国会議員や官僚としてのご経験が無いにも拘わらず、前述したような政治の現場で起こり得るあらゆる現象を予測し、選挙を控えた国会議員にとっては無視できない国民世論の動向までを分析された上で、反対者を論破する為の想定問答から我々が選択すべき政治的プロセスまでを示して下さったことである。
 親しみやすい丸いお顔と優しい笑顔、穏やかな物腰の百地先生は、「実に常識的な普通のおじさま」なのだが、実は、過激なまでに行動的な学者でもあるのだ。

 そんな百地先生の新著「憲法の常識 常識の憲法」は、常識的な普通の国民が抱いている素朴な疑問に明快に答えてくれる。
「在外公館や在外邦人が武力攻撃を受けても自衛権の発動は出来ないという政府答弁があったけれど、それでは何の為に自衛隊が有るの?」、
「竹島や北方領土等、領土が侵犯されても自衛権は無いの?」、
「政教分離先進国だと言われる米国で、大統領が聖書に手を置いて就任の宣誓をするのは何故?小泉総理の靖国神社参拝は合憲なの?」、
「在日外国人は税金を払っているから参政権も与えるべきだという政治家が居るけれど、何か問題は有るの?」、
「テレビ番組で人気者の弁護士の講演を聴いたら、『国民には憲法を守る義務は無い』って言っていたけれど、それは本当?」、
「言論・出版・表現の自由は憲法で認められているけれど、犯罪を誘発する可能性の有る内容のソフトでも放置せざるを得ないの?」、
「そもそも、国民の自由や権利を制限する『公共の福祉』って何?」等々、日々のニュースを見ては不思議に思っている事柄の背景が、百地流常識的解説で理解できてしまう。
 
 自民党は結党50年の今年11月までに「新しい憲法草案」を書き上げると公約しているし、民主党は昨年6月に「憲法提言中間報告」を発表している。
 まだ基本理念を知り得る程度の段階だが、両者の内容には、「正反対の方向性」と言っても良い程の開きが有る。
 自民党側では、「国家の責務」「公共の福祉」「国民の義務と責任」に重きを置いた議論が展開されている。邦人拉致事件発生やテロリズムの脅威、国家主権が侵犯を受けた外交問題の頻発、凶悪犯罪の増加を受けて、国民保護や社会秩序回復の為に国家の役割を重視する方向性だ。
 一方、民主党側では、「グローバル社会の到来」「地球市民的価値」「連帯革命」「分権革命」という言葉を使って、「国家主権の縮減と共有化」「国家の枠を超えて保障されるべき新たな個人の権利」を唱え、全体的に国家の役割を軽減していく方向性だ。
 百地先生は、国家権力行使を制限する「制限規範」であるとともに、国家権力行使の根拠を定めて正当性を担保する「授権規範」でもある憲法の役割を分析されている。「何れに重きを置いているかが2つの政党のスタンスの違いなのだろうな」などと妙に納得しながら、憲法改正論議の行方を見守っている私である。

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