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田原総一朗さんへの反論

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 8月18日放送の「サンデー・プロジェクト」にて、田原総一朗さんが、私に対しておっしゃった言葉について、25日の番組で謝罪がありました。

 18日の放送では、「満州事変以降の戦争は、日本にとって自存自衛の戦争だったと思うか?」との田原さんの問いに対して「セキュリティーの為の戦争だったと思う」と私が答えた途端、田原さんがまくしたて始めました。「下品で無知な人にバッジつけて靖国のことを語ってもらいたくない」「こういう幼稚な人が下品な言葉で靖国、靖国って言う」「靖国神社に行ったら、下品な人間の、憎たらしい顔をしたのが集まっている」
 全国ネットの生番組で突然「下品」といった言葉で罵倒され、あまりの出来事にしばし茫然。数分前に「国立追悼施設新設の是非」について私が行なった説明の中に下品な言葉遣いでもあったのかしら・・と思いを巡らしながらも怒りが込み上げ、怒鳴り返したいのを我慢して座っているのが精一杯でした。その後、この件では反論のタイミングも得られないままに番組が終了。

 翌日、電話で田原さんから「下品という表現は申し訳なかった。高市さん個人の事を言ったのではなく、国会議員が集団で靖国神社に参拝することは良いと思わないし、今日も右翼から電話があったが、靖国に参拝される方の中に下品な人が多いということを言いたかった」とお詫びが有り、後日、「サンデー・プロジェクト」のプロデューサーが議員会館に足を運んで下さいました。「私たちには、個人の人格攻撃になる言葉を放送したという『放送責任』というものがありますから、次回の番組できちんと謝罪します」とのことでした。
 プロデューサーの誠実な人柄に接し「十分に名誉回復していただけますね」と念を押した上で、改めて私の戦争についての考え方もご説明しました。下記の内容です。

(戦後教育を受けた私の「現代人としての価値観」や「現在の国際法」に照らして考えると、他国の領土・領海・領空内で行なう戦闘行為の殆どは(同盟国への防衛協力の場合等を除く)、「侵略行為」である。しかし、「日本にとって」「自存自衛の戦争だったか」ということなら、そうだったと思っている。その問いは「当時における戦争の位置付け」を問われたものと理解したから。欧米列強の植民地支配が罷り通っていた当時、国際社会において現代的意味での「侵略」の概念は無かったはずだし、国際法も現在とは異なっていた。個別の戦争の性質を捉える時点を「現代」とするか「開戦当時」とするかで私の答え方は違ったものになったとは思うが、私は常に「歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか」で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている。)

 その後、プロデューサーから、「25日の番組では、高市の考え方も改めて紹介した上で、『無知』『下品』をいった表現について謝罪をする」「(私が25日に出演しないことから)当番組は欠席裁判はしないこととしている」旨、ご連絡をいただきました。

 果たして25日、「サンデー・プロジェクト」の放送時間には、私は地元で教育問題の学習会でパネリストをしていた為、ビデオで放送を拝見しました。
 田原さんから、「先週の放送で高市さんへの反論の中で、下品という言葉を私は使いました。これは誠に不適切で、このことで高市さんの人格が傷つけられたとしたら、誠に申し訳ないと思います」とお詫びがありました。その後、アナウンサーから番組としてのお詫びがあり、私の考え方についての説明がありました。
 ここまでは良かったのですが、その直後に田原さんが言った言葉が問題でした。まさにプロデューサーが言った「欠席裁判」で、私には反論の場も得られませんので、このページを使って反論したいと思います。

 田原さんはこうおっしゃいました。「ちょっとここで反論したい。植民地政策がまかり通っていたが、第1次世界大戦が起こりまして、ウイルソン大統領が植民地政策はやめようと、その直後にワシントン条約で植民地を作るのはやめようということになった。満州事変、日中戦争はこの後のことなんです(後略)」

 田原さんは、誤った認識をもって一方的に私を再批判されたものと考えます。

 第1に、1921年11月から1922年2月まで米国の招請によって開催されたワシントン会議は「海軍軍縮」「太平洋・極東問題」がテーマではありましたが、「植民地」は議題にも上がっていません。

 第2に、第1次大戦後の講和会議においても「植民地の存在」は全く否認されていません。

 第3に、田原さんが「ワシントン条約」とおっしゃったものは、多分、ワシントン会議の期間中に締結された条約や決議のことを指すのだと思いますが、領土云々に該当しそうなのは「海軍軍備制限に関する条約」と「中国に関する9国条約」くらいでしょうか?  しかし、この2条約も「植民地を作るのはやめよう」といった条約ではありません。

 「海軍軍備制限に関する条約」は、当時、米英日の3大海軍国が建艦競争をしており、各当事国の財政負担が大変なものになっていたことから、建艦制限をし、太平洋に新たな海軍根拠地を建設出来ないようにしようとしたものです。特に、米国の納税者の声を受けて米国が動いたもので、港湾設備や造船技術で米国を上回っていた日本への牽制でもありました。
 しかし、この条約においてさえ、米国、英国、日本が「太平洋で現在領有する島についての現状維持」のみならず「将来獲得する島」まで制限外としました。千島列島、小笠原諸島、琉球諸島、台湾等も制限外に当たります。

 「中国に関する9国条約」では、東アジアの混乱を招く不安定要素の多い中国に関して統一と保全を促進し、関係国間では商工上の機会均等や門戸開放などが約されました。

 まだ第1次世界大戦中だった1917年の石井・ランシング(日米)協定では、米国はしぶしぶ「領土が接近する国家間には特殊な関係が生ずることを承認し」「日本が支那において特殊利益を有することを承認」していました。しかし、米国は日本の極東での影響力増大を食い止める為、9国条約をもって、中国における経済活動や鉄道利用などで締結国すべてが平等となる状況を作ろうとしました。
 条約は、「近いうちに中国に安定政権が誕生し、近代国家として統一されるであろう」ことを期待して締結されたものの、ワシントン会議から3ヶ月後の1922年5月には張作霖が東三省(満州)独立宣言をし、中国は「北京」「広東」「奉天」の3政府に分裂、「主権」「独立」どころか国家としての体をなさない状態になってしまいました。この時すでに満州は、条約に言う「支那中央政府」の支配の及ばない実質的自治地域になっています。
 翌年、臨城事件が起きて、被害に遭った各国からは9国条約の取り消しを求める声が上がり、北京外交団では各国による共同警備案が討議されました。ワシントン会議で予測できなかった中国共産党の台頭と共産主義の浸透、混乱と排他主義により、条約締結国の期待は裏切られました。また、ワシントン会議に参加していなかったロシアが、外蒙古に侵入し、極東における共産主義浸透を早めたことも想定外の出来事でした。
 中国の分裂と混乱、世界の保護貿易主義傾向で資源や市場を獲得できなくなった日本の経済安全保障への懸念、地理的に隣接するロシアの極東軍事力の増大、様々な要因の中で追い詰められていった日本の「当時における大義」はやはり「自存自衛だった」と言わざるを得ません。(その後の戦闘行為の中で発生した個別の戦時国際法違反事例を正当化はいたしません。米国が原爆投下で犯した「非戦闘員の殺戮や非軍事施設への攻撃」といった事例は、各国とも経験しているはずです)

 繰り返しになりますが、田原さんがおっしゃった「植民地を作るのはやめよう」という内容の「ワシントン条約」なるものは存在しません。もしも、当時そんな条約があったとしたら、第2次世界大戦後独立したアジア諸国を植民地としていたヨーロッパ諸国は条約違反を犯していたことになってしまいますから、説明がつきません。
 いずれにしましても、公共の電波を使って「不正確な言葉と情報」を発信して、その場にいない私の考え方を批判されたやり方は、フェアーでなく、メディアの正しい在り方とは思いません。

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